ミステリと言う勿れ 第7話

<ネタバレ注意><個人の感想です>

 

 「勿れ」は強い禁止。漢字で表現することによって、より強めの表現になっている。タイトルの「ミステリと言う勿れ」は、「ミステリと呼んではいけない」という意味だろうか。

ミステリーというカテゴリーで勝手にくくらないでほしい。もっと多くのものをこのストーリーから読み取ってほしい、という作者の願いが込められているように思う。

 

 大隣署管内で発生した4件の連続放火殺人事件。それらには、両親が死亡し、子どもだけが生存している、という共通点があった。

 犯人は井原 香音人(かねと)(早乙女太一)と下戸 陸太(おりと ろくた)(岡山天音)。彼らは、虐待を受けている子どもたちを救うために、加害者である親を焼死させていた。

 

 香音人は、子どもたちがその後、幸せに暮らしているかどうかを知りたくて、鷲見という青年に会いに行く。

 鷲見は香音人に感謝するどころか、より苦しんでいることを伝える。「わかるよ。僕も虐待サバイバーだから」という香音人に対して、鷲見は、香音人の親はたまたま火事で死んだだけで、殺したわけではない、鷲見たちは香音人に殺害を依頼することにより、自分たち自身が親を殺したことになる、と主張する。香音人に自分たちの気持ちは、わからない、と。そして言う。「二度と来んな」

 

 香音人は、自分のしたことにより、子どもたちがかえって苦しんでいることに絶望し、「天使」としての活動をやめることを決意する。

陸太は自分が香音人にとって無用となり、捨てられると誤解し、香音人を刺す。

陸太に刺されても、香音人は逆に謝る。

「ごめんね、陸ちゃん。苦しくさせて、痛くさせて」

「陸ちゃん、助けてあげられなくてごめんね」

と言って、香音人はこときれる。                 

これはもう、天使というより、神の領域だ。

 

♫アベ・マリア(シューベルト) 陸太の号泣

 

冷凍庫に横たわる、香音人の遺体 美しく、安らかな表情。冷気に包まれて、本当に天使のように見えた。

 早乙女太一は、このところ、NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」、テレビ朝日系の「封刃師」と立て続けに出演している。大衆演劇出身の実力派だ。

 

将来、教員になりたいという久能 整(ととのう)(菅田将暉)に対し、陸太は自分の壮絶なイジメ体験を語る。担任もそのイジメに加担していた。

 

< 整 > 「僕はいつもいろんなことに気づきたいと思っています。僕のクラスに陸さんがいたら、家で何か起こっていることに必ず気づくと思います。香音人さんがいたとしたら、その異変に絶対気づきます」

 「必ず」「絶対」という言葉が用いられ、理想論のように聞こえるかもしれない。現場の教員の中には、理想論だ、教員は忙しくて、一人一人に目を配っているゆとりなんかないんだ、という者もいるだろう。教員の仕事は肥大化し、ゆとりがないのは確かだとしても、子どもたちを最優先に考えていれば、気づくはずだ。一人が気づかなくても、教員の中の誰かは気づくはずだ。子どもたちとのコミュニケーションが取れていれば、教員が気づかなくても、子どもたちの誰かが気づき、教えてくれるはずだ。

 

自分は死刑になるだろうけれど、その日まで何をしたらよいのか、と問う「陸太」に対し、「整」は自分の幼少期の体験を語る。

図書館の庭に一人でいると、ある女性が話しかけてきた。蟻という字の義がどういう意味であるか、石はなぜそこにあるのか。いっぱい考えてみるといい、という。そして、それを誰かに話すといい、と言った。

石はなぜそこにあるのか。自分が見ている外界は、なぜ存在するのか。自分とは何者なのか。存在論―哲学の領域だ。いや、「哲学」とカテゴライズする勿れ、か。

「整」は言う。

「考えるといいと思います。身の回りにあること全て、考えて考えて考えて  誰かに話してください」

無表情に淡々と語る「整」。真っ当なことを、照れもせず、カッコつけもせず、淡々と語る…確かにこの役は、菅田将暉にしかできない。しかも、モジャモジャ頭で。

「整」―(菅田将暉)が「陸太」―(岡山天音)に語るこの言葉は、テレビの画面を超えて、見ている人々の心に響くだろうか。

 

そこに突然現れる「ライカ」(門脇 麦)。香音人の柩(冷凍庫)の前にひざまずき、「自省録」のページと行番号を、まるで祈りの言葉のようにつぶやく。「ライカ」が信者〜修道女のように見える。 宗教的イベント クリスマスイブの出来事。

 

< 風呂光 >(伊藤沙莉) 「病院に縛られていたご夫婦のお子さんは、施設に保護されました。ずっとお母さんに会いたいって泣いているそうです。やっぱり、どんな目に遭っても、子どもって…」

< 池本 >(尾上松也) 「そりゃそうだろう。どんな親でも子どもは大好きだろう」

< 整 > 「それ、いい話じゃないです。子どものその気持ちに親はつけ込むので。

でも、でも母親も追い詰められている」

 虐待された親が、子どもを虐待する。生まれた時から、その世界で育ってきたから。虐待の連鎖―再生産。その連鎖を断ち切れるのは、社会のシステムチェンジであり、教育だ。

 

「ライカ」が祈りの言葉として、つぶやいていた「自省録」の該当箇所をつなげると

「感謝する。君の火に助けられ、苦痛は過ぎ去り、私は悦びに満ちている」

 

「ライカ」「千夜子」も虐待を受け、「天使」によって解放されたのか。しかし、年齢が合わない?

 

「25-6〜を読んで心が決まった。あれは刺さるな。 彼にもう一度会いたかった。ありがとう、整くん。」

 

♫別れの曲(ショパン

 

 「勿れ」で思い出すのは、ヘミングウェイの「誰(た)がために鐘は鳴る」で引用されている、ジョン・ダンの詩の一節だ。

 ゆえに問うなかれ 誰がために鐘は鳴るやと

 そは汝(な)がために鳴るなれば   (大久保 康雄 訳)

 (だから、聞いてはいけない。一体誰のために、弔いの鐘は鳴っているのか、と。君を弔うために鳴っているのだから)

 ヘミングウェイは、スペイン内戦で、独裁者フランコと戦う共和国軍側に義勇兵として参戦した。スペインでの民主主義の危機を他人事として見ていれば、やがてその危機は、自分たちをも巻き込むことになる。スペイン内戦は、もう80年ほど前のできごとだが、今や世界中で民主主義は危機に瀕している。中東、アジア、アフリカだけでなく、ヨーロッパ、アメリカ、日本でもだ。

 虐待、いじめ、差別…それらの不合理も他人事として見ていれば、やがてその不合理に自分自身も巻き込まれていくことになる。だから、「整」のように、単純明快に「NO」と言う必要がある。そう考えさせられた。

 

 深く、考えさせられるドラマだ。「単なる」ミステリーではない。

 

<原作> 田村 由美

<脚本> 相沢 友子 

<演出> 松山 博昭

<プロデュース> 草ヶ谷 大輔(フジテレビ) 熊谷 理恵(大映テレビ

<制作・著作> フジテレビ